オンナはナンパしてきた男に、幸福にされるか? 不幸にされるか?

ナンパ師は相手の女の子を不幸にするか、幸福にするか?という井戸端での議論がある。僕は最近、この事について考えている。こんな問題を定義すること自体ナンセンスかもしれないけれど、あくまで僕自身の今の考えでも残しておこうと思い、まさしく徒然なるままに書き記してみようと思う。

 

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今日は寒い。近頃夏はもう仕事をやめたようで、霧のような弱々しい雨が続いた。秋がかまってと、寂しがりやの子どものように肌に張り付いて離さないように。僕はさっき、近所のスーパーでぽつんと二つだけ売れ残った8等分されたスイカを一片買って、真っ黒い種をせっせとほじくりながら、3人ほどの女性とLINEをしていた。
一人目はもう知り合って半年ほどで、既にセ_クスは何度かしているし、それなしで映画に行ったりご飯に行ったりするA子だ。
二人目は彼氏と同棲して結婚も決まっているが、なんとなくこれでいいのかと悩んでいる所を相談に乗っていたら関係を持ってしまい、その後も何度か同じようにそれを繰り返しているB子だ。
そしてもう一人はクラブで知り合った子で一ヶ月ほど前に準即した子だ。この子は僕がギラつくなり、もう遊びではしないからそういうことはやめてとグダったのだが、僕のシュガールーティンにより(今名づけた)関係を持ち、それ以来もう一度会ったという関係のC子だ。
ぼんやりとしていると、LINEの通知が二分おきに鳴り、三人から回覧板のように順々にLINEがかえってくる。僕はスイカを食べながら、山型に切られたスイカはてっぺんの方が総じて甘く柔らかくって、こんな味が続いたらいいのになと、そう思った。

 


A子とは、本当を言えばこうなるはずではなかった。僕は初めて彼女とセ_クスをした時、とても直感的に、付き合ってもいいかもしれないと思った。変な話、顔もかわいい系で悪くないし、性格は明るく穏やかで、ファッションも好きだったし、体の相性も良かった。彼女のつけている香水もとても惹かれる香りで、彼女が帰った後の枕の香りを嗅ぎながら、安らかな気持ちで寝られることが幸せだった。好きな香りの趣味が近いことは、好きな食べ物や、趣味が同じか、それ以上に意味があることのように、僕は思える。
しかしながら、もう一度、もう一度、と会っていくうちに、当時キープしていた子たちや、ナンパで出会う女性たちにふわふわと気持ちが揺らいでいき、本当にこの子と付き合うべきか?ということを迷ってしまった。
彼女も、最初は付き合うかも、という期待を抱いていたようではあったが、次第にその空気が互いに薄れていくのは感じ取れたんだと思う。もしくは僕の態度を見てそうしていったのかもしれない。
僕としても、クラブが好きで週に一回程度行っている彼女をどこかで信用しきれなかったし(お前が言うなという言葉が地獄で待っていたとしても)、明らかに流されてセ_クスしてしまう感じは容易に想像できてしまった。いわんや、友人から、クラブでA子が持ち帰られそうになっていた話や、チューをしていた話などを小耳に挟み、僕が初めてA子とカラダを重ねた興奮は、熱したフライパンに落とした水滴のように、一瞬で沸騰してなくなってしまったかのようだった。
勿論、付き合えば人は変わるし、そういう部分に期待できなくもなかったが、逆に言えば僕が彼女と付き合うという決心をした途端に、僕自身がずっと浮気をしないで過ごせるか?ということに対して自信もなかったんだと思う。僕は次に彼女を作るときはもうナンパも浮気もしない時だと、一応は決めているから…。
何人も彼女を作ったり、平気で浮気するくらいの意志なら、そんな意志しかもてない自分への自己嫌悪が目に見えている。なんというか美学にかけて、という非常に抽象に近いかもしれない表現だが、できるだけそうしたいとは思っている。この遠回しな表現が本当に自分の弱さを物語っていることが、情けない話だろう。
そういったことを含めて、A子が最後の相手になるのか?デスティニーズ・カノジョなのか、そこへの疑問を払拭できずに今に至っているのであった。

 


B子とは、最初会った時に美人だな、と思ったがまさかここまで深い関係になるとは、思ってもいなかった。会った当時ナンパをしていなかった僕は、一見クールそうなB子を見て挨拶する程度だった。そうして半年ほどたってナンパを学ぶ中で、B子は見かけはクールそうで誰ともさして深く仲良くなさそうではあったが、それは逆にB子が人見知りなだけで、本当は寂しがりで、誰かに話を聞いてほしいと思っているのではないか?というある種のコールド・リーディングを使う実験材料となり、それがまさにディープインパクトしたのであった。
それからどんどん仲良くなり、ネグを入れていく中で関係は深まり、一年ほどかけてセ_クスに至ったのであった。彼氏がいて、同棲もし、順調なはずなのに、あまりにそれまでまじめに生きてきたせいで、彼氏がかなり束縛な人物だと気がついてもいなかったし、セ_クスも嫌いなようだった。けれど、僕はB子の奥底に潜んでいた欲望を、開放してしまったのだった。
それほど会うわけではないが、確かにB子は特に悩んでいる時に僕にLINEをしてくるし、それは往々にして彼氏の愚痴であり、引いては人生相談なのだった。僕はそんなB子の愚痴を聞き、会って話しをし、時にカラダを重ねる。B子は彼氏とのセ_クスはあまり好きではないが、僕とのそれには快く応じた。
そうしてB子は僕と別れた後に、話を聞いてくれてありがとう、息抜きになった、また頑張れそう!とメッセージを寄越した。
と、こう書いてみるとなんだか単なる僕の自慢、あるいは村上春樹の小説のような長ったらしい美談のようだが、結局、僕はB子に迷いの道を指し示すことにもなったし、彼氏にとってはただのテロリストでしかない。
僕にとってB子は慰めてあげたい存在である。性格も気立ても本当に良く、美人なのだから、妥協や成り行き、流れといったものの中で自分の意志を失って、疑問符を浮かべたままの不幸な道を歩んでほしくはない、そんな願いがあった。
無論、だからといって彼氏から奪ってまで彼女にしたいか、と言われると、そこまでの動機が見いだせなかった。あるいは僕が20歳の頃に出会っていれば、間違いなく本気で奪いに行ったかもしれないけれど、色々経験をしてきてしまった今となっては、デスティニーズ・カノジョには思えなかったのだった。

 


C子とはクラブで知り合った。クラブに居るいわゆる普通の感じの子、といった雰囲気のC子。甘えたな雰囲気だが話してみるとしっかりしていて、お持ち帰りなどありえない、と言いながら友達を放置して帰っていった。その行為の是非は別にして、C子とメッセージを送り合う中で、会おうということになり、相手の地元に行った。僕のアポ的には負けパターンだが、なんやかんやと相手の家におじゃまし、一緒に寝ることになりギラついたが、C子は最後までグダった。
これまで遊んできた事を明かし、もうそういうことはやめて真面目に付き合える人を探すのだと。しかしこれ、至極言っていることはマトモだが、男を家にいれてベッドにいるという状況が、全然マトモじゃないのだった。これは女子特有の、男子が理解できない状況トップ3じゃないかと思う。結局そのグダは三十分後には、最寄りのコンビニでプリンしか買ってないのにレジ袋をもらってしまい、帰宅と同時に捨てられる運命のソレに類似する結果として、ふわりと葬られた。
そしてその後は、C子の誓いはどこ吹く風となり、また僕は世間体的な負のスパイラルへとC子を導いてしまった。
では彼女にしたいか?と言われると、またソレも違う気がしていて、とても料理が美味かったり、人に気を使えるし、きれい好きで、19歳の僕だったらサマーウォーズばりの「よろしくおねがいしま~~す!!!」という感じになれたかもしれないが、今や二十数回サマーがやってきた僕には、どうも特別な夏には、デスティニーズ・カノジョには思えなかったのだった。

 

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ずいぶんと前置き、というかもはや本編が長くなってしまったが、本題は、ナンパ師は相手の女の子を不幸にするか、幸福にするか?ということである。
この三人の女性を鑑みるに、僕は結局、絶妙なバランス関係の上に立っていて、幸不幸が鏡のようになっているのだと思った。そしてあくまで「現状」というのがバランスのとれている少し幸福な状態であって、それは人生からすると恐らく短期的であり、ホントのところは「いつまでかわからぬ不確かな現状」に過ぎない。
この「不確かさ」というのは言い換えれば、束縛のない自由であり、約束されない未来への希望であり、誰についても責任を負う必要もなく、選択権を与えられ続けている状態である。無重力バンザイである。ゼログラビティである。
何がいいたいかというと、ゼログラビティを今すぐレンタルビデオ屋で借りてこい、そこに答えがある。で、そういうことになりはしまいか?といいたいのだ。
長い目でみれば、略してゼログラは女性は若さを売りに出来る限られた時間を浪費しているかもしれないし、逆に出会いという経験が次への何らかのステップになる可能性にならなくもないのだとは思う。

 


近頃で言えば、僕自身がこのゼログラを相手に、淡い恋愛やセ_クスをする事に疲れてきている気さえする。こう書くと本当にバカみたいな、無自覚な自慢に聞こえるかも知れないが、ホントの気持ちである。
ツイッターにも「即」とか書かなくなってしまったが、それは僕がその報告を、ある種のマーキング行為に近いものと感じて必要性を失いつつあるからだ。
勿論男たるや、セ_クスをしたいという欲望に嘘は付けない。美人を見たら振り返るし、クラブではナンパもするし、新規だ新規だと思う気持ちもなくはない。けれど今の自分から脱却するには、更にむちゃくちゃナンパがうまくなるか=自分が本当に好みのイイオンナを抱けるか、彼女を作るかでしかない気がしている。後者に至ってはそれもナンパで得ようとするなら、結局ナンパがめちゃくちゃ上手くなる必要がある。これは結構、今の僕のテンションからすると即バカルディ注入であるが…。

 


少し話がずれるが、ツイッター上のナンパ師は、ポケモンドラえもんの映画のように、定期的にナンパは承認欲求だなんだと話題にする事があるのだが、少しそうじゃない社会学的な捉え方をしてみたい(とか言ってみたかった)。
それはアメリカの社会学者レイ・オールデンバーグが「都市生活者にとって、家庭と職場以外の第3の居場所が必要である」と述べたいわゆる“サードプレイス(the Third Place)”というものを必要としているからじゃないかな、と、受け売りで思ったのだ。
“サードプレイス”とは、まずファーストプレイスが家であり、一人の完全にオフの時間、あるいは主婦ならば働く場所になるかもしれない。セカンドプレイスが仕事場であり、責任を負い、緊張状態にあるオンの状態。
つまりサードプレイスとはそのどちらでもない領域だ。オンとオフを切り替える場所、中間地点、ありのままの自分を取り戻す場所、いつでも気軽に行ける場所ということである。これが人によっては居酒屋であり、マッサージ店であり、趣味の釣りや、図書館かもしれない。
サードプレイスでは、そこに集まる人は責任を負い合う関係でもなく、いい意味で明確な目的もなく、気楽に無秩序に集まれるところや空間が理想とされる。
緩いフットサルチームが、人員が増えて連絡やユニフォームを管理し始めた途端に面白くなくなるように、誰もが何ものからも自由であれる場所なのだ。そう、先に述べたセフレやゼログラ状態というのはまさにこれに属する存在であり、こと、これが愛についてやお互いの将来についての責任を負い始めると、途端にしんどくなったりするのは、所詮はその状態にいる僕達がサードプレイスとして使いたかっただけなのではないか?という疑問に帰結する。オールデンバーグがサードプレイスが必要といったことを、とりあえずは鵜呑みにするとすれば、ナンパ師に(と言うか普通の人同士にしても)セフレやステディがいることが、サードプレイスを提供しあっているという幸福をもたらしているのだとは思う。
ただそれが一夫一妻的な恋愛観の中で愛憎と混じってはサードプレイスになりえず、それは安らぎではなく不安という不幸を提供してしまうだろう、というのが今回のまとめみたいになってしまった。

 


結論を言えば、社会学的にナンパ師と女性が、双方ともにサードプレイスとして機能している関係性を築けているのであれば、それは相手を幸福にしているということである。よってB子と僕が一番幸福的であり、その後にA子C子が同レベルではないかと思う。

 


さて、さんざん引っ張ってきたが、ぶっちゃけ社会学的に幸か不幸かなんてどうでもいい!!!
…し、そんなもので図れるくらいなら、誰も村上春樹の小説など読みはしないだろう。そして僕がスイカの甘い部分がいつまでも続けばいいのになどといった、国語的な戯言が突いて出るはずもない。
幸福はアリかナシかという二元論では推し量れず、結局はスイカの真ん中から皮に向かって味が変化する事と、煩わしい種という障害を突発的に排除していくことで少しは質が変わってくることに似ていると思う。
しかも種を排除する事、それ自体に人生の面白さみたいなものがエッセンスとして振りかけられていて、いつまでも甘いスイカを食べたければ、運がいいか、努力して育てるしかないのだと思う。ナンパを始めたらきっと目の前にはこれまでの経験に基づいたスイカ畑が広がっているんだろう…。






追記
サードプレイスの話を少し掘り下げると、僕は知り合いのナンパ師さんたちとよく一緒に飲んだりはしゃいだりするが、それこそが僕や彼らのサードプレイスなのではないかと思う。何ならナンパをしているよりの楽しい事すらあり、勿論結果を出さなければ意味がないと思うのではあるけれど、ナンパ師が集まる理由はそこにもあるのではないか、そう思った。

 



photo by Michael Thomas,j / f / photos